翻訳はむずかしいと考える理由が「語学」の難しさなら、中学高校や大学で英語の成績が少しばかりよかった人たちや、仕事や生活で外国語を道具として使っている人たちが翻訳ならやさしいと考えたとしても不思議ではない。翻訳はむずかしいという見方と翻訳なら簡単だという見方は、正反対にみえて、じつは「語学」を共通項とする表裏一体のものなのである。翻訳なら簡単だという見方がいかに根強いかは、翻訳学習者の意見を聞いてもすぐにわかる。翻訳なら簡単だと思ってはじめたのですが……という感想が聞けるはずだ。簡単だと思っていては技術を磨いていこうとする意欲がでてくるはずがない。したがって上達もしない。翻訳の難しさが身に沁みてはじめて、技術について考えるようになるし、上達のために工夫するようになる。だから、翻訳の難しさを確認しておくことは重要である。翻訳の難しさについては、ここまでで何度も触れてきた。翻訳は執筆である。翻訳には対象を制御できないという性格がある。自分か考えてもいなかった論理、感じたことがなかった感覚、知らなかった情報を扱うのが翻訳だ(よく知っていることばかりが書かれたものを、時間とコストをかけて訳す理由があるだろうか)。